#前澤陽一先輩が久しぶりに書いたライナーを勝手ながら此処に載せたいと思います!レコード会社の方々、スミマセン...そして皆さん是非、発売中のTHE WHOデジタル・リマスター・シリーズ「The Kids Are Alright」を買って下さい!御願いします。

 先輩については此のコーナーに時々登場してますので、そちらもチェック宜しく!そしてキース・ムーン追悼Gig!の輪を全世界に広げましょう!

 

『ザ・キッズ・アー・オールライト』は1979年に劇場公開(日本未公開)されたザ・フーのドキュメント映画であり、このCDは、そのサントラ盤である。

 ご承知のように、ザ・フーは1964年にデビューして以来、文字どおりロックの黄金時代を築き上げてきたバンドである。日本での人気の低さとは裏腹に、イギリス本国や欧米ではロック・ミュージックの革新者、世界最高のロックンロール・バンドとして認知されてきた。1982年に一度解散したが、その後、数年ごとに復活ツアーを繰り返しており、通算の活動歴は37年に及ぶ。そんなフーの長い歴史の中で、この映画『ザ・キッズ・アー・オールライト』が、日本のファンにとってどのような存在だったのか、以下の三つの視点に基づいて記してみたい。

 最近のロック・ミュージックはビジュアル先行で、シングル曲やアルバムができ上がると同時にビデオ・クリップも用意さる。音と同時に映像を楽しむことができるのだから、今のリスナーは幸せである。

 ザ・フーのライブがすごいという評判は、60年代のレコード解説や数少ない音楽雑誌などでも伝えられていた。70年代になると、「世界最高のロックンロール・バンド」という評価にまで高まっていったのである。フーは一度も日本には来ていないわけだから、当然そういう話はすべて海外のメディアが伝えてきたものである。

 そんな中、60年代のヒットシングルや、彼らの評価を決定づけたロックオペラ『トミー』を聴いてフーの虜になったファンが、ライブを見たいと思うのは当然の欲求だった。ところが、なかなか人気の上がらない日本には、フーのライブ映像はほとんど入って来ない。たびたびあった来日話も、話だけで終わってしまったのである。

 フーのライブ映像が日本で初めて、そして唯一きちんと紹介されたのは、1970年に公開された映画『ウッドストック』であろう。この中で「サマータイム・ブルース」と「シー・ミー・フィール・ミー」の2曲が披露され、かつてだれも見たことのないような派手なステージアクションと、楽器壊しのパフォーマンスに多くの人が度肝を抜かれたのである。

 しかしファンの不幸はさらに続く。そんなフーのかっこよさの虜になったファンが切望しているにもかかわらず、その後も映像はほとんど日本に入ってこなかったのである。想像するに、フー側の戦略として「映像の安売りはしない、俺たちを見たかったらライブに来い!」ということだったのだろう。すでに70年代の洋楽の状況はといえば、1発ヒットが出れば、半年後には日本にやってくるのが当たり前の時代になっていたにもかかわらず、である。

 かくして日本のファンは、目にすることのできないザ・フーのライブを想像し、余計にライブを見たくなるという悪循環に陥り、ストレスをため込んでいったのだった。片思い故に、好きな彼女への思いがさらに募る状態とでもいえようか。

 そんな不幸な70年代の最後に公開され、日本では80年代になってビデオ化された本作は、積年のファンの思いを晴らすのに十分な作品だったのである。1965年から78年までの、いわばフーの旬の時代の映像は、13年間分の盆と正月が一度にやってきたほどの喜びだったのである。

  第2のポイントは、このCDに収められているリアル・ライブの重要性である。フーには『トミー』『フーズ・ネクスト』『四重人格』といった傑作、大作がいくつもあるが、彼らの最大の魅力であるステージのエネルギーを伝えるライブ・アルバムは、過去に『ライブ・アット・リーズ』(1970年リリース)一枚しかなかった。80年代以降『フーズ・ラスト』とか『ジョイン・トゥゲザー・ライブ』『ワイト島ライブ』などが次々リリースされたが、フーがライブ・バンドとして絶頂の時代に、9年間もライブ盤が出なかったというのも、日本のファンにとっては悲劇だったのである。

 本作にはテレビショーからのものやレコードからの流用も多いが、「ハッピー・ジャック」「マイ・ワイフ」「ババ・オライリィ」「スパークス〜ピンボールの魔術師」「マイ・ジェネレーション・ブルース」「無法の世界」といった、貴重なリアル・ライブも数多く入っている。本作は『ライブ・アット・リーズ』の続編を聴きたいと願うファンの欲求に応えてくれた、たいへんありがたい作品なのである。

 第3のポイントは、ドラムを叩いているのがすべてキース・ムーンであるという点だ。「キース・ムーンの前にキース・ムーンなし、ムーンの後にムーンなし」という格言があるとおり(どこに?)、彼はロック・ミュージック界唯一無二のドラマーだった。彼の縦横無尽、自由奔放なドラミングは、一度見たら忘れられるものではない。リンゴ・スターやチャーリー・ワッツなどと比較していただければ分かると思うが、リズム隊というそれまでバンドの中では目立たない存在だったドラマーの位置づけを、彼は一発で変えてしまったのだ。

 一方、彼はロック界の悪名高き社交家とも言われたが、彼の常道を逸した振る舞い(奇行)は、多くのファンを楽しませてくれたものだった(迷惑を被った人も多いだろうが)。そんなキースも78年9月7日、天国へ飛び立ち、帰らぬ人となってしまった。17歳でフーに入り、31歳の若さで逝ってしまったキース。このフィルムにはザ・フーの13年間の歴史が詰まっているが、特にキースの変貌ぶりには驚かされる。十代のころは可愛い少年として、メンバーの中でも一番女の子に人気のあった彼が、無茶苦茶な生活を繰り返すうちにどんどん変貌を遂げていく。抜群の切れ味をみせていたドラミングも、73年くらいから次第に衰えていく。そんな変化を、映像は酷いほど忠実にとらえているのである。もう二度と見ることのできない、人生を急ぎすぎた一人の天才の記録という点でも、『ザ・キッズ・アー・オールライト』は貴重な作品なのである。

 ここで紙面を借りて、ぜひ紹介したい話がある。毎年9月7日のキースの命日に、東京・高円寺のライブハウスで「キース・ムーン追悼ライブ」が行われている。大名というシンガー兼ギタリストが中心になって、もう13回も続いているイベントで、毎年、有名無名のミュージシャンが集い、ほぼ完璧にフーを演じている。最近はいろいろなバンドのトリビュート・ライブが盛んだが、このキース・ムーン追悼ライブのレベルは恐ろしく高い。本物を日本で見られる可能性がほとんどなくなった今、このイベントに足を運んで、フーのライブの疑似体験をしてみるのも楽しいだろう。

 

 では、簡単に作品の紹介をしておこう。

 67年6月、モンタレー・ポップ・フェスティバルに出演するため初めてアメリカに渡ったフーは、一度帰国した後、7月7日から9月15日までの間、初の本格的アメリカ・ツアーを行った。「マイ・ジェネレイション」と「恋のマジック・アイ」はそのツアーの最後にロスのCBSスタジオで収録され、9月17日に「スマサース・ブラザーズ・コメディー・アワー」で放送されたもの。「アイ・キャント・エクスプレイン」はアメリカのテレビ番組「シンディング」からとなっているが、おそらく収録は1965年のマーキー・クラブでBBCが行ったものと思われる。

 「ハッピー・ジャック」はスウェーデンのツアーからのものである。フーは65年から毎年のようにスウェーデンに行っており、人気も高かった。この演奏では、キース・ムーンの最高に切れ味の良い、畳みかけるようなドラムを聴くことができる。レコードでは一風変わったポップソングだったこの曲を、ライブでこれほどかっこいいロックにしてしまうところがフーらしい。

 「マジック・バス」「不死身のハードロック」はともにレコードからの音源である。映画では、前者はドイツのテレビ番組「ビートクラブ」に出演したときの映像が流れ、後者はエンディングのタイトルバックに使われた。

 「エニィウェイ・エニィハウ・エニィホエア」はイギリスのテレビ番組「レディ・ステディ・ゴー」で演奏された65年のスタジオライブである。それまで単なるノイズとしか思われていなかったフィードバックを曲の間奏に取り入れた、いわゆる「フィードバック奏法」が初めて世に紹介された貴重な映像である。

 「ヤングマン・ブルース」はアメリカのジャズピアニスト兼ヴォーカリストであるモーズ・アリソンの曲である。70年の『ライブ・アット・リーズ』のオープニング・ナンバーとしてあまりに有名(同アルバムの「25周年エディション」ではオープニング曲ではなくなっている)。この日の演奏は69年12月14日、ロンドンのコヴェントガーデンにあったロンドン・コロシアムで行われたもので、『ライブ・アット・リーズ』の演奏に勝るとも劣らない出来に仕上がっている。

 「マイ・ワイフ」はアルバム中、唯一ジョン・エントウィッスルの作品。ただし、CD収録のみで、映画からは省かれている。というのも、この記録映画を監督したジェフ・ステインは、最新のフーの映像も是非とも撮りたいと考え、77年12月15日にロンドン・キルバーンにあるガウモント・ステート・シアターで急遽フーのライブを行わせた。しかし、久しぶりのギグだったこともあって、その映像にメンバー全員が満足しなかったため、映像はボツになってしまい、結局この曲の音だけが本作に収められた。

 「ババ・オライリィ」と最後の「無法の世界」は、どうしてもフーの新しい映像が欲しいジェフ・ステインの意向を汲んで、78年5月25日にミドルセックスのシェパートン・スタジオで改めてライブを行ったときのものである。半年前とは違い、今度はメンバーも納得のいく出来だったようで、それは映像からも十分伝わってくる。また、この日の演奏はキース・ムーンの最後のものであり、そう思うと涙なしには見られない。

 「クイック・ワン」は本作中の聞き物であろう。66年当時、1曲が9分を超すという画期的な作品として知られる一方、オペラ形式で作られたこの曲が、後のロックオペラ『トミー』の原型になったと考えられている。この演奏はローリング・ストーンズが企画したテレビショー『ロックンロール・サーカス』に出演(68年12月10日)したときのものだが、フーのあまりの素晴らしさに比べて、自分たちの演奏に不満を持ったミック・ジャガーが放映に待ったをかけ、長い間お蔵入りになっていたという話はあまりに有名である。それにしても、こんなにポップなナンバーを、これほどテンション高く演奏できるバンドをほかには知らない。

 「トミー、聞こえるかい?」は先のビートクラブからのもの。収録は69年の9月27日。同じく『トミー』からの「スパークス」「ピンボールの魔術師」「シー・ミー・フィール・ミー」の3曲は、いずれも69年8月17日にウッドストック・フェスティバルで40万人の聴衆を前に演奏したときのものである。

 「ジョイン・トゥゲザー〜ロードランナー〜マイ・ジェネレイション・ブルース〜無法の世界」のメドレーは、75年12月6日にミシガン州ポンティアックのシルバードームで行ったライブからのもの。この日フーは、スタジアムに7万5千人以上の観客を集めた。ところで、本作の初CDでは、このメドレーがそっくり省かれていたが、前回の紙ジャケット・シリーズではオリジナルと同じ形でこのメドレーが復活した。今回のリマスターCDでは、そこに「無法の世界」加わり、それがボーナス・トラックになっている。

 最近の話題を最後にひとつ。昨年(2000年)11月27日、ロイヤル・アルバート・ホールで「フロム・ザ・ブッシュ・トゥ・ザ・ワールド・ツアー」の最終公演を見た。新作も出さずにツアーを行い、スタジアムを満杯にできるところがフーらしいが、それはさて置き、このツアーは82年の解散後、89年からの「キッズ・アー・スティル・オールライト・ツアー」、96年からの「四重人格ツアー」以来、3回目のリ・ユニオン・ツアーである。しかし、前2回のツアーが多数のサポートミュージシャンを起用していたのと異なり、今回はドラムにザック・スターキー(もちろん、あのリンゴ・スターの息子)とジョン・バンドリックを加えた5人編成で行われた。つまり、本来のフーのスタイルに最も近い形で、行われたということである。82年の解散ツアー(フェアウェル・ツアー)と比較しても、ザックはケニー・ジョーンズよりもキース・ムーンに似ているし、何より82年は解散を前にして、メンバーの気持ちが入っていなかった(と思う)。僕が見た日は、有料テレビの収録日だったからかもしれないが、メンバー全員の気合いの入り方が半端ではなかった。ピートはフェンダーのストラトキャスターをぶっ叩きながらガンガン弾くし、ジョンは「5時15分」の途中でベースソロを5分以上も弾き続けた。その日は幸運にも最前列で見たのだが、ロジャーに至っては、どうやっても30代にしか見えない。「50代のフーがこんなにすばらしいんだから、1970年前後のフーはどれほどすごかったんだろう」と思いながらも、大満足したのだった。

 余談が長くなってしまったが、ここらで結論。全国にはまだ一度もフーを見たことのない人、これからフーの魅力に取り憑かれるだろう若いファンが大勢いるに違いない。この『ザ・キッズ・アー・オールライト』は、そんな人たちの入門編として最適な作品である。そして僕のように「フーのライブを見たい症候群」の治らない人にとって、本作は常備薬として一生持ち続けるべき宝物のような存在なのである。

 

2000年3月13日 前澤陽一

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